昭和40年04月07日 朝の御理解
皆さん坂本繁次郎という絵書きさんをご存じでしょうか。【 】日本でも有名な絵書きさんです。同時に大変な人格者でもあるそうですねえ。今日御神前にでらして頂いたらねえ。坂本繁次郎さんを何回とわなしに頂くのですよ。どげな事じゃろうか私思うたんです。坂本繁次郎さんの事から信心は、ここだという事を私感じたんですけどね。あの方は特に馬の絵を得意とされている。
馬の絵を書いたら右にでる者がないといわれておる。最近の絵なんかは、何やらかにやら分からんけれどもいわゆる抽象的な絵なんです。坂本さんの絵には、動きがあるといわれておる。見れば見るほど【 】そこで私は、その坂本繁は繁ると書いてあるねえ。信心は、繁盛いわゆる繁る繁盛のおかげを頂く為には、絶対坂が元である。坂というのは、信心は、山登りと同じと仰る。
いわゆる修行の事なのです。修行なしに繁盛のおかげ絶対受けられんですねえ。本当の意味での繁盛です。そこで私達その事の思い込みができてまいりますところに修行修行と思わんというところまで、すすんでまいります。修行が楽しい、修行が有難いという事になってくるのです。そこにおかげは、おかげでもいわば徳を受けられるおかげを頂けると。繁盛のおかげを頂く為に絶対坂が元であるという事。
繁盛この修行なしに繁盛のおかげをうける事は、絶対ないその修行をです。修行を修行としてうけていくのだけれども口で修行と語りながら心で苦労を感じおる間は、おかげにならん。その坂が登る事がです、いよいよ有難いのもに楽しいものにならなきゃならない。例えばここで馬のお知らせはお互いが持っておるいやしい心と。そのお互いの心の中のあるいやしい心というのが、段々そのいやしい心である故にです、その卑しい心に取り組んで信心修行させて頂く時にそれが、いよいよ浄化される。
いわゆる、坂本さんの最近描かれるところの、馬の絵のようなものである。いやしい心というものを、私の心の中に発見させてもらう。ほんとにあさましい事ある。自分ながら、へきへきする様ないやしい心をです。例えば、それを感じれる様にならなきゃいかん。自分にはこんなにいやしい心、こういう汚い心ぐらいは、あたりまえ。そこには坂本さんが描かれるような所の、すばらしいいわば馬、いやしい馬でも最高のものと、いう様な事になってこない。
まず信心は、だからまず自分の中の汚い心いやしい心に本気で取り組ませて頂いて、それが少しづつでも浄化していくという事を楽しみ。日々の生活の上にも様々な難儀に直面する。その難儀から逃れるのではなくてです。その難儀と正面から取り組ませて頂いて、それを一つ一つ難儀の為に心が浄化する。難儀な為に自分の心の飛躍をみる事ができる。難儀の為に信心がすすむ。
もちろんすすむ度におかげの方もすすんでいく。そこに楽しみがうまれてくる。ただ修行させて頂いてそのそこのところをおかげ頂いたというだけでは、本当の楽しみは、生まれてこん。おかげの楽しみでは、なくて信心の楽しみでなからなきゃいかん。信心がすすんでいく楽しみでなきゃらなきゃいかん。私は、今日坂本繁次郎さんと、その得意とされる馬の絵の事から同時に坂本繁次郎という一字一字の文字からもう信心は、絶対もう心だと分からさせて頂かなきゃいけん。
坂本繁次郎さんであり、同時に自分自身の真実見極めさせてもろうて自分のいやしい心に取り組ませて頂いて、そのいやしい心があったおかげでです。信心がすすんだ。いやしい心があったおかげでいやしい心が、浄化した。馬の絵に違いがないけれども、それが高度な信心になっていく事ができる。同じいわばいやしい汚いその心でもです、その信心によってひとたび磨かれる時、浄化される時、それはもういやしい物でも汚い物でもない。いわゆる有難いものとしてのおかげがある事に気付かせてもらう。
それをひとつ思い込まにゃいけん。ですから皆んなが持っているその難儀という事を、難儀とせずにですねえそれを信心の修行として受ける。この方の行は火や水の行ではない家業の行と仰るのもそこ。その日々のその困ったら困ったという難儀な問題にです、問題を私は、楽しんで受けていける様な信心ね。そこまでは一つ信心が思い込みが出来るという、そこまで信心が高められなければ、ほんとにこの難儀から早く逃れたい。
早よう逃れたいとといういう様なその逃れたいばっかりに信心しておると。成程それは、逃れるかもしれません。一生懸命信心修行させてもらうから。けれども苦しい苦しい、ただこの苦しいから逃れたいというのであっては、おかげを頂いたその暁というてもやはりおかげだけのこと。そしてまた次には、また同じ修行がまちかまえておるという事。難儀が待ち構えておるという事。
そこでその難儀というのをです、楽しんで受けられる様な、それから抜け出るのではなくてから、これを頂きぬいた時です。おかげが頂けるだけではなくて自分の心の中に頂くこれがお徳であろうかという様なものを感じられる様なおかげを頂いていく。楽しい。信心を楽しみはここにおかなきゃいけん。本当にこげな所を堂々回りしたんでは、いつまでもたっても私は、信心のおかげ、本当のおかげはうけられんと思う。
少し思通りになると信心がもう堕落する。なら信心が続いたら おかげもまた堕落する。こうすると又こりゃまいっちょ早せにゃと弾む。またおかげを頂く。また堕落する。何故なのか、魂がないから、修行に対する。おかげを受ける事だけは、解っているから又その精進するけれどもです、その事によってお徳を受けて行く。力を受けたいと楽しみがないから。私はいよいよ信心をおかげを頂けば頂くで熱心になり、難儀な事があればあったで、愈々信心が有難いものになっていくという事になって来んと思う。
どうぞ今日その坂本繁次郎さんを頂いてから私は、いつも申しております事ですけれどもその事の思い込みを作らにゃいかん。坂本繁次郎という字から皆さんもう一遍そんなもんだということを思い込ませ頂く信心。同時に坂本繁次郎さん描かれるところの馬の絵というものがです、始の間は、いうならほんの馬の絵であった。それがもう馬は、馬でもです。いわゆる気品があるというか、浄化されたというか、いわゆる芸術的いわば価値というか馬の絵の中にいよいよ発揮していかれておるという事。
馬というのは、いやしい心と。いやしい心は、お互いの心の中にある。そのいやしい心を本気で取り組ませてもろうてそれをけいこさせて頂く時にです、坂本さんの描かれる様な馬の絵がです。いやしい心があるおかげでです、いわゆる信心が浄化していく。高められていくという様なおかげを頂くと。そこのところにひとつ何というてもその事のね、思い込んでいかなきゃいけません。
どうせ自分がこの難儀から逃れないとあきらめるのでは、なくてです。この難儀があるおかげでいわば信心がすすむんだと、お徳が受けられんのだとそこから逃れようとするのじゃない。でなかったら本当の信心、本当の徳がうけられんという思い込みをつくって信心の稽古させて頂くとです、本当の願いがもう一段楽しいもの有難いものになってくると思うですねえ。
おかげ頂きました。